新潟県水泳連盟 Niigata Swimming Federation

 新潟県水泳連盟小史 桑原 圭司

『水泳にいがた』1996 vol.1(創刊号)掲載文全編収録 また、新たに(6)を加筆収録予定

(1)草創期 (2)戦前 (3)戦後前期 (4)戦後中期 (5)戦後後期 (6)新時代の始まり(仮)

 (1)草創期(明治32年〜大正12年) 

 村山正臣の指導と斉藤兼吉の活躍

 新潟県は上・中・下越と広がる大県である。水泳の組織的指導も各地区の中心地である新潟市・長岡市・柏崎市・高田市(現在の上越市)で始まった。新潟市では明治32年に神伝流自然流の開祖の村山正臣が新潟高等小学校の児童を指導したのが始まりである。長岡市では、明治34年古志郡教育会が神伝流の教師を招き、小・中学生を指導したのが始まりである。柏崎市では水府流指南の増田 穆の呼びかけで大正14年に結成された柏崎水泳協会による指導が始まりである。

 上越市では、明治39年高田中学が水泳部を設置し、水府流太田派の佐藤 甲を招き指導を受けたのが始まりである。佐渡については不明であるが、大正6年の極東大会で優勝した斉藤兼吉(佐渡中学―東京高師)を排出している。斉藤はアントワープオリンピックに内田(北大)とともに出場し、日本水泳会最初のオリンピック選手となった。

 県内の中学校で水泳部の最も古いものは、明治39年に設置された新潟師範、新潟中学、新潟商業、高田中学である。その後、長岡中学、柏崎中学、佐渡中学、糸魚川中学、小千谷中学、長岡工業、柏崎商業が水泳部を設置し、大正6年に県大会を開催している。斉藤選手の活躍に刺激され、新潟県も競泳の時代に入ったのである。

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 (2)戦 前(大正13年〜昭和18年) 

 北陸水上連盟・新潟県水上競技連盟の発足

 オリンピック帰国後の斉藤、内田により、泳法改革の動きは活発になった。大正末期には、新潟中学、長岡中学がトラジオンクロールを取り入れて練習した。長岡中学出身で同校を指導した野村佐多雄(慶大)は第1回日本学生の400m自由形で優勝している。さらに高田、柏崎、佐渡でもクロールが取り入れられ、近県中等学校、県中等学校大会などが開催された。

 いち早く近代泳法を導入した新潟県のレベルは相当のものであった。事実、大正13年の第1回全国中等学校大会では、北村博繁(新潟中)が100m自由形で優勝している。

 新潟県水泳連盟の創設は昭和4年4月である。昭和3年、新潟市水上競技連盟と長岡水泳協会がそれぞれ結成され、さらに、日本水上競技連盟の加盟団体になるため、北陸水上連盟(当時、北陸ブロックには全県またはブロックを代表する水泳団体がなかった)を結成した。ついで昭和5年に高田水上協会、昭和6年に佐渡水上協会が結成され連盟に加盟した。この年、新潟水上競技連盟と改称したが、新潟県水泳協会となったのは昭和14年からである。当時の主な大会は北陸中学校、北陸水上、全日本県予選、県水上、県小学生郡市対抗などの大会である。この時期に全国で活躍した選手は数多くいた。

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 (3)戦後前期(昭和21年〜昭和35年) 

 敗戦からの復活

 昭和19・20年は水泳競技の完全停止ということで、記録の低下は歴然としていた。昭和25年の日本高校で関川重久(佐渡高)が50・100m背泳ぎで2位、5位と入賞、300mメドレーリレーで県チーム(関川・竹内・後藤)が7位になり漸く沈滞を脱した。なお、竹内(高田高)は中央大学に進学し、昭和29年から新種目としてのバタフライで3回も日本新記録を樹立した。そのほか、国体等で、教員では本間竹志、市野重治が、青年では菅野 泰、布施俊夫、小林俊彦、高校生では塚本利三郎(佐渡高)、関 武久(柏崎工)が活躍した。なお、布施は国体青年100m自由形で2回優勝している。

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 (4)戦後中期(昭和36年〜昭和55年) 

 新潟地震と夏季国体の中止

 昭和36年は39年の新潟国体を目指して本格的に選手強化に取り組んだ最初の年である。本間竹志強化本部長のもと、冬季間の岩手県釜石市、秋田県本荘市の温水プールでの合宿を始め、強化は熾烈を極めた。4年間にわたる強化の効果は大きく、38年の全国中学で小林幸夫(柏崎一中)が100mバタフライで優勝し、日本高校では、1,500m自由形で伊藤勝二(相川高)が、100m背泳ぎで本間哲郎(相川高)がそれぞれ5位、前年の山口国体では教員の斉藤堅一、由良 務、横瀬 功が入賞し新潟国体への夢をふくらませた。

 ところが、突如として起こった新潟地震のため夏季国体は中止となった。厳しい練習の中で頑張ってきた監督・選手をはじめ、関係者一同の失望は言葉に表せないほど大きかった。それでも国体に向けての強化の遺産は確かに残った。伊藤は、その後、日大に進学し1,500m自由形で日本新記録を樹立し、メキシコオリンピック代表選手になった。しかし、よく40年からは県勢の成績も次第に低下した。その中で斉藤、由良、坂口達也、村川俊彦の教員選手は頑張り、村川は福井国体の200mバタフライで優勝している。その後、国体、日本高校で入賞している青木正男(高田農)の活躍が目立つ。青木は法政大学に進学後も平泳ぎの第一人者として活躍し、モスクワオリンピック代表選手に選ばれた。女子では鈴木雅子(新潟青陵短大)が青森国体で活躍した。

 飛込も昭和37年から小田敏彰(日体大)を指導者として招き強化がなされた。南波克憲(長岡商)が39、40年に日本高校で入賞し、その後、吉原直樹(長岡商)、伊藤正明(長岡商―日体大)へと引き継がれた。伊藤もモスクワオリンピック代表選手に選ばれた。現在も小田の教え子の塚田貴則、小林 均が中心となり指導が続けられている。

 水球は、当時はまだ東京教育大の学生であった内田 力が柏崎高校の指導にあたった。ゼロから出発した柏崎高校の水球を全国のトップレベルまで引き上げた内田の指導は瞠目すべきものがあった。国体中止の無念さは日本高校の2連覇で晴らしたのをはじめ数多くの名選手を育成した。矢島秀三(柏崎高―日大)はメキシコ・ミュンヘンの両オリンピックに日本代表選手として出場した。その後、水球は柏崎に定着し、滋賀国体では3位になっている。

 昭和45年、県水泳協会は低迷を脱すべく、規約の改正と役員の刷新を行った。強化も新潟国体前の原点に戻し、指導者の指導力の強化とジュニアの強化を重点事業とした。

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 (5)戦後後期(昭和55年〜平成7年) 

 2度の全国中学校選抜大会の開催

 強化の再出発として、昭和58年に全国中学校選抜大会を誘致した。新潟国体の開催地、長岡市悠久山プールでの大会は大成功であった。強化の面では、全中特別強化委員会を設置し、小4〜6年生が強化選手に指定され、新潟国体の強化を参考に拍車がかけられた。数次にわたる強化合宿の成果は大きく、決勝進出14種目、内9種目入賞という好成績であった。

 翌59年の全中では400m個人メドレーで渡辺幸江(直江津中)の優勝をはじめ10種目入賞を果たし新潟旋風を巻き起こした。中学生の活躍が起爆剤となり、60年の鳥取国体では、霜鳥公和を中心とした200m混合リレーの3位のほか、9種目に入賞し、61年の山梨国体では、成年男子200mリレーで、酒井伸隆・三冨哲也・井比 亨・高山 武のメンバーが堂々日本新記録で準優勝した。また、少年女子A400m自由形で濁川春美(直江津高)が優勝、全部で10種目の入賞をし、雪国・新潟の大躍進ぶりを示した。

 その後、日本高校で矢沢克宏(長岡大手高)が100m自由形で、小杉久人(長岡大手高)が100mバタフライで優勝するなど県勢の活躍は目を見張るものがあり、さらに福岡国体においては、成年男子200mリレーで、矢沢克宏・土田 剛・阿部 剛・高野 務が日本新記録で優勝し、新潟日報スポーツ大賞に輝いた。

 平成4年には再度、全国中学校選抜大会を誘致した。大会にはオリンピック金メダリストの岩崎恭子選手の参加もあり大盛況であった。大会運営は国体並みと古橋日本水泳連盟会長からお褒めの言葉を頂いた。この全中からも優秀選手が輩出した。中村真衣(長岡宮内中)は平成6年の世界選手権、アジア大会に日本代表選手として出場し活躍した。また、平成7年には日本選手権の100m背泳ぎで日本新記録で優勝し、パンパシフィック大会の代表にも選ばれた。

 ところで、新潟県水泳協会は、立川前会長のもと、平成5年に規約の改正と役員の刷新を行い、財団化を目標に新潟県水泳連盟と改称した。財政基盤の確立、組織の充実、全国に伍して競える選手の育成強化を図るための改編である。競泳・飛込・水球と新たに昭和58年からスタートしたシンクロを加え、新たな組織のもと大いなる発展を期している。

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 (6)新たな時代の始まり(平成8年〜現在) 〔この項、未完〕

 中村真衣の2度のオリンピック出場と2巡目国体を目指しての取り組み

 

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